名文を読め──丸谷才一『文章読本』

数ある『文章読本』のなかでも決定版と呼べる本。書かれている内容は論理的かつ本質的であり、同名の書物に谷崎潤一郎、三島由紀夫などの文豪が名を連ねるなかで本書が特に評価されているのも頷ける。現代日本における漢字・ひらがな・カタカナの入り交じる文章についても言及されており、初版発行が1980年ではあるが、今の読者でも隅々まで栄養にすることができる。

本書のなかで繰り返し述べられてるのは「名文に触れること」である。何冊か文章論の本を読んだ人だと「またそれかよ」と思うかもしれない。しかし明確な理由とともに名文に触れる重要性について書かれているので、気がつけばそれに対して反論する余地など全くなくなってしまう。丸谷才一が編む言葉のパワーに圧倒させられてしまう。

「名文」とはなにか

「この文章は良い」と思えば名文

そもそも名文とはなんなのだろうか。夏目漱石、森鴎外といった文豪が書いたなら、それが漏れなく名文なのだろうか。自分にはピンと来なくても、評論家が絶賛していたらそれを名文として扱わなければいけないのだろうか。必ずしも間違ってはいないだろうが、正しいようにも思えない。考えるほどに定義が難しいように思えてしまうが、本書のなかでの基準は単純だ。「自分が良いと思えばそれが名文」なのである。

ところで、名文であるか否かは何によつて分かれるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。

その文章に感動しさえすれば、その対象がゴシップ誌でも芸能人のブログでも構わない。「名文」という引き出しに森鴎外の格調高い文章と女性アイドルのキャピキャピの文章を一緒に入れてしまってもいいのである(おすすめはしない)。文章とはつまり何かしらの思いを相手に伝えるためのものだ。そう考えると一般に名文とされている文章でも、自分の心に届かないのであれば参考にすることも難しい。心から納得できなければ、それは自分の文章のエネルギーにはならないのだ。

偏らないための多読

ただし、丸谷才一は同時にその危険性についても述べる。自身と名文との出会いは素晴らしいものではあるが、好きなものばかりを追いかけていると偏りが生まれてしまうのも事実。それを避けるためにも推奨されているのが「多読」である。ジャンルを横断した読書をすることで、感性を研ぎ澄ますことができる。

ただしここで大切なのは、広い範囲にわたつて多読し、多様な名文を発見してそれに親しむことである。これは、わたしのすすめた、君自身と名文との激烈ではあつても独断的な関係がともすればもたらしがちな弊を補ふのに、ずいぶん役立つだらう。それが文章の幼い趣味を陶冶し、洗練してくれることは言ふまでもない。第一、われわれの文章のあつかはねばならぬ主題はおびただしく、われわれの文章の伝へねばならぬ気分は数多い。それゆゑ必然的に文章の手本は多種多様でなければならない。

これにて「名文は自分で見出すもの」であり、さらに「偏らないための多読の必要性」がわかった。では名文を読むことは、我々の文章にどのような影響を及ぼしてくれるのだろうか。

名文を読む意義

正しい言葉の使い方と、生きた語彙の習得

名文が教えてくれるものとして、言葉使いがある。先人たちの言葉の使い方を名文から吸収しておき、それを文章を書くときに用いる。つまり材料にするのである。ともすると「それは模倣ではないのか」と思ってしまうが、そもそも我々は全く新しい言葉を作り出すことはできず、できるのは既存の語や言い回しを組み合わせて文章を書くことだけだ。丸パクリは論外だろうが、過去から学ぶということは文章においては当然の営みなのだろう。

落ちついて考へてもらひたいのだが、われわれはまつたく新しい言葉を想像することはできないのである。可能なのはただ在来の言葉を組み合せて新しい文章を書くことで、すなはち、言葉づかひを歴史から継承することは文章を書くといふ行為の宿命なのだ。

また文章を書く上で語彙が豊富であることに越したことはないが、その点でも名文を読む意義は大きい。というのは名文の中から語彙を覚えることは、同時に文脈における効果的かつ正しい使い方まで学べるからである。英単語を覚えるだけで英語は話せないように、言葉は生きた状態から学ばないと活かすことはできない。名文に触れることは、国語辞典を頭から読むよりもよほど効率のいい語彙の増やし方なのである。

人間の思考に適合した文章を身につける

名文に触れるべき別の理由として、丸谷才一は「人間の思考および感受性と言葉の関係をしつかりと身につけるため」と言っている。どういうことなのだろうか。これは自分が四の五の言うよりも、引用文を読んでもらうようが理解しやすいと思う。

それにもともと、文章の調子にとつては個人個人の生理や体質よりももつとずつと大切なものがある。それは人間の思考といふ普遍的なもので、その普遍的なものに合致するやうに言葉をつらねるからこそ、文章は他人に理解してもらへ、つまり伝達が可能になるのである。

(中略)

われわれが過去の名文に親しまなければならないのは、実はこの、人間の思考および感受性と言葉との関係をしつかりと身につけるためだと言つてもよからう。

名文というのはさまざまな姿形をしているものだが、その奥底には人に受け入れられるための共通の法則のようなものがあるのではないだろうか。その法則というのは言い換えれば人間の思考や感受性という普遍的なものであり、繰り返し名文を読むのはそれらを肌で感じ、身に着けていくための営みなのだろう。ちなみに自分でも正しく解釈できているかの自信はない。

丸谷才一とは何者か

「名文」という視点で本書の内容に触れたけれど、当然ながらこんなのは『文章読本』の一部に過ぎない。日本の口語文の成り立ちや文体論など、全体としては日本語に対する向き合い方を中心としている本と言える。丸谷才一の研ぎ澄まされた感覚を吸収することが本書の正しい読み方だろう。また厳選された名文が数多く引用されており、文章をどのように味わえばいいかの参考にもなる。

こういう人は多いかもしれないけれど、自分は『文章読本』を読むまでは丸谷才一という人物を全く知らなかったクチである。そんな奴がこんな記事を書くのもためらわれたのでエッセイを2、3冊読んだのだが、とにかく敬服せざるを得なかった。古今東西の文学作品に対する深い造詣には舌を巻くし、それでいて自らの文章には軽妙さや趣味を重視するべきという鷹揚な姿勢を貫いている。内容だっておもしろい。丸谷才一を知らない人は本書と同時にエッセイも読んでみることをおすすめしたい。

裏表紙では『文章読本』を書く丸谷才一を「当代の最適任者」と形容してある。正しい。

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