ドン・ジュアンは単なる女たらしではない/『ドン・ジュアン』

少し前に「紀州のドン・ファン」の事件が話題になったが、その報道を聞くたびにモヤモヤとさせられた。自分にとって”Don Juan”は昔から「ドン・ジュアン」と呼ぶものと思っていたからである。「ドン・ファン」だといかにも間の抜けた感じで格好悪いし、なにより世代的に某ポケモンのほうが頭に浮かんでくる。外国語のカタカナ表記に絶対的な正しさなんてものは存在しないのだが、やはり個人的には岩波文庫などでそうされているように「ドン・ジュアン」と呼びたいものだ。

ただ呼称に対するこだわりはあるものの、よく考えれば自分は『ドン・ジュアン』の物語がどのようなものなのかをまったく知らない。それを自覚すると気になって仕方がなくなってきたので、モリエールが著した名作戯曲『ドン・ジュアン』を手にとってみた次第である。

ドン・ジュアンの人物像

まず世間で認知されているようなドン・ジュアンの人物像と言えば「プレイボーイ」「女たらし」「放蕩者」といったものだが、これはまったくもって正しい。冒頭の従僕らの会話からもわかるとおり、ドン・ジュアンは妻帯者でありながら別の女性を求めてすでに旅に出ているという始末。そんな主人の性格を従僕のスガナレルは以下のように表現する。

世にも穢れなる大悪党、気違いの犬畜生、悪魔、トルコ人、異端者、天国も地獄もお化けおおかみも信じないようなおかたなんだ、けだもの同然にこの世を渡るエピクロスの豚、放蕩無頼の殿さまさ。

実の主人に陰口とはいえこれだけ言えるのも凄まじいが、逆に考えれば従僕にここまで言わせるほど逸脱した性格をしているのがドン・ジュアンということなのだろう。

ただ一方でドン・ジュアンという人物を固有の性格の持ち主のように捉えるのも疑問に思える。というのもドン・ジュアンはその場面によって驚くほど違った姿を読者に見せるからだ。例えばドン・カルロス(妻・エルヴィーヌの兄)と邂逅したときは貴族らしい実に紳士的な振る舞いをするし、かと思えば父であるドン・ルイから叱責される場面ではそれまでの姿が嘘のように沈黙を貫いていたりする。掴みどころが無いのである。

こうして見るとドンジュアンの性格は一見すると単純なものに見えるが、実際にはあらゆるキャラクターを内包していると言えそうだ。彼から発される言葉はすべてが偽りのように見えて、そのどれもが真に迫っているようにも見える。そのようにさまざまな要素を持った複雑な人間性が、ある意味では彼の――ひいては作品全体の――魅力になっているのだろう。おそらく彼が本当に単なる「女たらし」であったならば、ドン・ジュアンは後世まで語り継がれなかったはずだ。確かに「女たらし」ではあるのだが、その奥にある彼の性格上の深淵を無意識的に感じられるからこそ、現代まで彼が特定の性格の代名詞として残り続けているのだろう。

『ハムレット』との共通点

こういった性格上の類似はシェイクスピアの『ハムレット』にも見ることができる。ハムレットも復讐に燃える王子という本筋上の性格像はあるものの、ときには弱気に苛まれたり、ときには道化同然の立ち居振る舞いをしたりもする。ただそれが作品の骨格をブレさせているかというとむしろ逆で、それによっていっそうハムレットという人物が魅力に見えてくるし、また数々の名言が生まれたりもした。

また両者とも非業の最期を遂げる点が共通している。ただハムレットの場合は悲劇的な死ではあるのだが、それを超越した力強さのようなものを感じる最期だった。反対にドンジュアンの場合は最期の瞬間が凄惨なところは同様だが、ただ従僕のスガナレルの独白なども相まって喜劇的な終わりという印象を受ける。作品内の死というのは本来はそれ自体が意味を持つように思えるが、ハムレットはそれに力強さを、ドン・ジュアンはそれに滑稽さを加えた。これも主人公の性格上の奥行きがあればこそ成し得た展開であったのかもしれない。

おわりに

なんとなく共通点を感じたので『ハムレット』を引き合いに出してみたが、先ほども言ったように両方とも主人公の性格の掴みどころのなさが作品の奥行きを作り、魅力を生み出すことになっているのは間違いない。ドン・ジュアンを単なる「女たらし」と思っていた人は、実際に読んでその性格に触れてみてほしいところ。


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