【読書感想】ユニークで深い『自家製文章読本』

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文章読本というと教科書のような堅苦しいイメージがあるけれど、著者である井上ひさし氏にかかればあっという間にユーモアに富んだ本に変わってしまう。それでいて文章というものの真髄に触れるような深い内容にも溢れており、笑わせられたり感心させられたりと充実の一冊となっている。

従来の文章読本では常識とされてきた内容を覆しまくっているのが本書の最大の特徴と言える。著者の文章に対する論考を追体験しながら、読者も文章の面白さや奥深さに触れることができる。

「話すように書くな」

このまえブログでも取り上げた『日本語の作文技術』にも同じことが書かれていたが、文章は話すようには書けないというのは井上ひさし氏も同じ考えのようだ。

その理由のひとつとして、話し言葉は非常に柔軟なものであることが挙げられている。話し言葉は実に70%が無駄な受け答えで占められているそうだ。例えば「えーっと」や「あー」などと言って間を取るのもそうだし、語尾に「じゃん」や「ね」などを付けるのも話し言葉の特徴と言える。また会話というものは相手の反応によって論旨をクルクルと変えることが多い。状況に応じてあっちこっちへ飛ぶのが会話の特徴なので、一貫性はそこまで重要視されない。

そういった点から見ると、文章はそうはいかない。文頭にいちいち「えー」とか「あー」とか書かれてある文章なんて気持ち悪くて仕方がない。それに会話と違い、文章では一貫性が欠如していたらあっさりと駄文と掃き捨てられてしまう。会話の要素を文章に活かせる機会は少ないのだ。

やはりここでも話すことと書くことは別物と考えて、それぞれに相応しい技術を身につけるほうが確実という結論になるだろう。会話のニュアンスを文章に出そうとするのは悪いことでは無いのだろが、徒労に終わることのほうが多いかもしれない。

そこで「話すように書け」などと信じていると文章を綴ることが、苦行とまではいかなくても、人間にはやや不自然な、もっといえばかったるい、そしてじれったい作業となる。むしろ「話すようには書くな」と覚悟を定めて、両者はよほどちがうものだというところから始めた方が、ずっと近道だろう。

文章における「引っ掛かり」は良いこと

また井上ひさし氏は「透明性の高い文章」が盲目的に評価されることに対しても疑問を投げかけている。

文章の透明性と言ってもわかりにくいけれど、つまりは読み手に文章というものの存在を感じさせずに、書き手の言いたい内容だけが伝わるようなものをここでは言う。確かにそんなことができればそれはある意味では文章というものの完成形のようにも思える。それとは逆に「不透明な文章」は時に読者を混乱に落としこむことがある。遠回しな表現や比喩の多用された文章はそうなりやすい。「けっきょくこの作者は何が言いたいのかわからん」と頭上に疑問符を浮かべながら読み進めるしかないこともある。

このように双方を比較するといかにも文章も透明性が高いほうが優れているように見えるけれど、著者はそういった考えを「迷信」と切り捨てる。文章における不透明性は害悪に見えるが、実はそういった引っ掛かりこそが読者に「次をはやく読みたい」と思わせる大切な要素なのだと言う。

不透明な部分が読み手には関心、謎、ショックとなり、それをいちいち解決しながら読み手は読み進む。もっといえば、文は読み手に「その先を知りたい」という欲望を起させ、その欲望を次々に充足させて、読み手を前へ前へと引っぱって行く。

比喩表現の中の「隠喩」にも同じ効果があるという話が『レトリック感覚』という本に書いてあったことを思い出した。女性に「子猫のように可愛い」と言ったらそれは直喩であるが、「僕の可愛い子猫ちゃん」と言ったらそれは隠喩である。隠喩は直喩に比べるとわかりにくいし、誤解を招くこともある。上記の例も読んだ人によっては唐突に謎の子猫が登場したのかと勘違いさせてしまうかもしれない。しかしわかりにくいからこそ、それが氷解した時に快感があり、より強く読み手を惹きつけることになる。隠喩はそういった効果が強いらしいのだ。

あまりに不透明すぎる文章は問題だろうが、ところどころで読み手に引っかかるような部分を残すことも興味関心を強めるためにも必要なのだろう。

なぜ文章を読み、文章を書くのか

自分は文章を読むことも書くことも好き……な方だと思っている。ただそれに対して「なんで?」と聞かれると少し困ってしまう。もちろん読書に関しては「知的好奇心を埋めるため」、書くことに関しては「数少ない自己表現になるから」などと一応は答えることができるけれども、同時にそれが絶対的な答えとは思えない気もする。つまりは自分でもいまいちその明確な理由をわかっていない半端な状態なのだ。

ただそんな疑問に関して本書の中にかなり良いことが書いてあった。井上ひさし氏が本書の中で言うには、読書行為と書記行為は人間が「時間」に抵抗するために生み出した行動だというのだ。本来であれば過ぎ去った時間は帰っては来ないし、未来を予測するようなことも不可能なので、時間に対して人間は無力である。しかし文章を読むという行為によって僕たちは過去の歴史を知り、先人の智慧に触れることができる。また文章を綴ることによって思想や事象を未来へ残すことができる。本来であれば到底かなわないはずの時間に対し、これらの行為によって抗うことができるのである。

せいぜい生きても七、八十年の、ちっぽけな生物ヒトが永遠でありたいと祈願して創り出したものが、言語であり、その言語を整理して書きのこした文章であった。わたしたちの読書行為のそこには「過去とつながりたい」という願いがある。そして文章を綴ろうとするときには「未来へつながりたい」という願いがあるのである。

人によっては「だからなんだ?」と思うかもしれないけれど、読み書きに対して色々と頭を捻っている自分にとっては限りなく答えに近いヒントを与えられた気分だった。「読む」と「書く」という行為に少なからず魅力を感じていたのは、その行為に時間を超越したような何かをボンヤリと見出していたのではないかと思う。少し大げさなことを言いすぎかもしれませんな。これ以上は熱苦しい感想になってしまいそうなので、この辺りでやめとこう。

おわりに

本を読み進めていくと、とにかくそのユニークさが目立つ。特に引用している文章が面白い。大衆雑誌や広告チラシなど、ジャンルの垣根を越えたさまざまな文章を取り上げている。それでいてそういった引用文が各章の内容と調和しているから凄い。

井上ひさしさんのことは「ひょっこりひょうたん島の人」というぐらいの認識しか持っていなかったのだけれど、この本を読むことでその他の著作にも非常に興味を持った。文学だけでなく様々なジャンルの本を執筆されているようなので読んでみたい。

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