野心に溺れた男の悲劇『マクベス(新潮文庫)』シェイクスピア著

『マクベス』はシェイクスピアの四大悲劇のなかで一番最後に書かれたものであり、また最も短い話でもある。だいたい『ハムレット』の半分ほどの短さであり、自分が読んだ新潮文庫版でも本編は120ページほどしかない。集中すれば一気に読めてしまうだろう。

この短さの理由には諸説があるらしい。有名なのは、初期の『マクベス』はもっと長い話であり、現在知れ渡っているのは大きく割愛されたテキストなのではないか、というものである。『マクベス』は1606年に宮中劇として公演されたと言われている。宮中で催される演劇は複数あるので、必然的にひとつあたりの時間は制限される。また王(当時はジェームズ一世)の心象を害さないための配慮として、内容に修正を加えるということもあっただろう。そういった諸々がきっかけとして、『マクベス』は現在の短縮形へと変わっていったのではないかと言われているわけである。だからと言って内容が薄いというわけではない。むしろ逆で、短縮されていく過程でこの作品の密度は非常に濃くなっていった。

短く、それでいて濃いストーリー

勇猛果敢の武将マクベスは、荒野で出会った三人の魔女に「いずれは王ともなられるお方」と予言めいた言葉を聞かされる。さらに歪んだ意欲に燃える夫人の後押しもあってマクベスの野心は膨らんでいき、とうとう王ダンカンの殺害に至る。予言どおりに王位についたマクベスだったが、疑心暗鬼から次々と強行へ及んでいく。『マクベス』はざっくり言えばこういう話なのだが、先ほども言ったように短さゆえに内容が非常に圧縮されているので文脈を読ませるし、それだけに登場人物の行動ひとつひとつの持つ意味合いが強くなっている。

例えば第五幕の冒頭で、読者はマクベス夫人が夢遊病に侵されていることを知らされる。これは展開としては唐突にも思える箇所だが、それによって読者はマクベス以上の野心を持っているように見えた夫人も、実際には極度の神経衰弱に陥っていたことを読み取らせているわけである。マクベスをして「恐れを知らぬ気性」と称された夫人も、やはりひとりの人間だった。

悲劇に偏りすぎない悲劇

自分はシェイクスピアの四大悲劇は『マクベス』以外だと『ハムレット』しか読んだことはないのであまり偉そうなことは言えないのだが、読後に感じるのは「悲劇」と呼ばれているほどに悲壮感を感じさせないということだ。もちろん主人公の最期だけにスポットライトを当てたら悲劇としか言えないが、それでも全体として見たときに随所でユーモアが見え隠れしているように感じるし、悲劇という言葉から連想するような後味の悪さはまったく無い。それはこの『マクベス』でも同様である。

そのように感じさせる理由として、ひとつはシェイクスピア作品の最大の特徴ともいえる雪崩のようなレトリックが関係していると思う。美しいレトリックの数々は読者に情景や心情をすっきりと理解させるし、それでいて不必要に話を重くさせない。それがシェイクスピアの作品が大衆に愛される要因となっているように思えてならない。

またマクベスは再び魔女たちと会ったとき、「マクベスを倒す者はいないのだ、女の産み落とした者のなかには」「マクベスは滅びはしない、バーナムの大森林がダンシネインの丘に攻めのぼって来ぬかぎりは」という作中のキーワードともなる予言をされるのだが、その言葉の意味が解き明かされていく過程もどことなく日本昔ばなし的な滑稽味を感じさせて面白い。マクベスの野望が打ち砕かれていくまさにクライマックスなのだが、こういった「とんち」が効かせてあるので、なんとなく和んでしまう。ここでも悲劇に偏りすぎず、かといって喜劇にも偏りすぎないというシェイクスピアの戯曲の魅力を感じる。

おわりに

他と比較したわけではないけれども、単体として見たときに新潮文庫版は十分におすすめできる。福田恆存さんの訳は歯切れがよく、原文のリズム感を出そうと尽力しているのを読んでいて感じる。演劇を見ているかのようなテンポで楽しむことができた。戯曲のあるべき姿かもしれない。

また巻末の解題には訳者の『マクベス』についての小論がまるまる載っけてあり、なかなかに贅沢である。そこでは主に『ハムレット』と対比させながら『マクベス』を論考していく姿勢を取っているので、仮に新潮文庫版を読むのであれば事前に『ハムレット』を読んでおくとより楽しめるのではないかと思う。


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