【読書感想】『日本の思想』丸山真男著

現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視角から追究していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意識が必要であるかを問う。日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察。

まずこの本を読む場合、三章と四章を先に読むのがおすすめである。三章と四章は講演を文章におこしたものなので読みやすいし、内容も理解しやすい。それに反して論文として発表された一章と二章は予備知識無しで読むには難解な箇所が多い。まず優しい三章と四章を読むことで著者の論旨をつかみ、それからあらためて一章から読んでいくほうがこの本は取っ付き易いのではないかと思う。

本書で述べられている日本の思想上の傾向は、現代に生きる自分が見てもなんとなく共感できる部分が多く、面白い。そしてそういった傾向からはどのような問題が生まれ、それはどのようにして解決していくべきなのか、ということの方向性を示しているのが本書である。

日本における「イメージ」の横行

まず著者が指摘しているのは、日本人はイメージや固定観念にとらわれる傾向が強いということだ。

人はイメージを用いて思考する生きものである。例えば人と会話するときだって「この人はこういう感じの人だろう」というイメージによって発言内容を変えていく。そしてそれは会話のみならず、あらゆる行動にも共通のことである。いわば思考の枠組みとなるわけなので、イメージを持ちながら行動するのは大切なことと言えるだろう。

しかし日本では、そのイメージがひとり歩きしやすい傾向が強いという。例えば自分たちはよく「女らしさ」とか「男らしさ」という言葉を使うけれども、それらの言葉は男と女の特徴をわかりやすくイメージさせてくれる反面、その特徴に当てはまらない存在を否定してしまう危険性も持っている。バリバリ働くキャリアウーマンを女らしいと、専業主夫を男らしいと思う人は残念ながら少ないのではないだろうか。そういった「らしさ」から外れる存在を許さないという風潮が特にあるのが日本だと著者は言うのである。

またそういった特徴を端的に表現するために、著者は「である」と「する」という言葉も使っている。例えば上下関係において、日本では社外でも「上司」と「部下」という関係性が維持される。これは「自分は部下であり、相手は上司“である”」という考え方が常にあるからだ。しかしアメリカ映画などでは上下関係がタイムカードを切った瞬間に対等な友人としての関係になるのをよく見かける。これは上下関係が上司のあげた業績――つまり「すること」――によって判断されているからで、社外ではそれは意味をなさないという考え方があるからである。もちろんこれは極端な例だし、どちらが絶対的に良いという話でもない。ただ日本ではそういった「イメージ先行の行動様式」が顕著になっているということがこういった例から感覚的にわかるのではないだろうか。

原因はなにか

そのような特徴が生まれる原因として、著者は社会の構造を「タコツボ型」「ササラ型」という言葉を用いて説明している。

ここでササラ型と言われているのは主に近代ヨーロッパの社会である。ヨーロッパではキリスト教という強靭な思想体系を土台として文化的伝統が形成されてきた。そういった背景があるので、一見すると学問や政治などの諸領域が細分化されているように見えても、実は根底では共通の土台を持っているのである。ササラも先がいくつも分かれているが、元を辿れば根本は同じなので「ササラ型」と表現しているわけである。キリスト教という土台こそがヨーロッパの思想を決定づけている要因と考えることができる。

日本は近代化に際してヨーロッパの学問を大量に受け入れていったが、それはヨーロッパにおいて既に細分化した後の段階――つまりササラの末端――にある学問だった。つまり学問の諸領域に共通の土台が無い状態で取り入れてしまったので、それぞれの独立性が強い内容となってしまったのである。そのような社会をまるで無数のタコツボが並列しているように見えるので、著者は日本をタコツボ型の社会と言っている。

タコツボ型社会の傾向として、別のタコツボの中身がどうなっているのかを知りにくいということがある。例えば自分がいる組織であればその内情を理解できるが、それが別の組織となると限りなく不透明となる。そういうときにイメージの横行が起きるのである。人はモノゴトが理解できないときに、それを補うためにイメージに頼るからだ。日本の「イメージ先行の行動様式」は、共通の基盤を持たず、各領域がタコツボ化しているから生じやすいということだろう。

問題点と解決方法

先ほども言ったように必ずしもそういった社会が悪いというわけではないが、危険性が潜んでいるのもまた事実である。日本の思想を取りまく状況に、どのような問題があるのだろうか。

まず著者が指摘しているのは、組織なり集団なりのタコツボ化が進むほどに外部に対して抱くイメージの層が厚くなっていき、自分本位となっていくということだ。自分のイメージに適さないものはすべて誤謬と考えてしまい、外部に対しての判断を誤らせてしまう。

従って自分たちがもつイメージとくいちがったイメージはみんな誤謬なんだから、「啓蒙」して、自分たちのイメージを普遍化すればいいという考えにおちつく。それが全体状況についての判断を謝らせ、説得としても甚だ有効でない結果をまねいているのではないでしょうか。(P164)

もうひとつは組織の成長が、他の組織の成長を促すような相乗効果が得られないということだ。共通基盤の上に成り立っている社会であれば、ひとつの組織が進歩・発展すれば、その根幹を通って他の組織の成長も促す結果となる。しかしタコツボ型の社会ではそれぞれが完全に細分化されているわけなので、ひとつの組織の前進がかえって他の組織を後退させることになってしまう。

組織がそれぞれタコツボ型になっておりますと、他の拡がって行くダイナミックスを持っていないので、こういうところでは一つの組織の前進が、ときにはかえって他の組織との連帯性を破壊する結果となる。(P165)

これらの問題を解決するひとつの方法論として、著者は「モンタージュ式」にそれぞれのイメージを合成していくような考え方の必要性を訴えている。つまり自分たちが抱くイメージだけをあてにするのではなく、より広いイメージを取り入れ、そのなかから最小公約数を導き出すように、妥当なイメージを構成していくということだろう。

われわれの社会における言語が組織の多元化と並行して複数的になるということ、それからイメージ自身が、それがどんなに元来の対象から離れていても、そのイメージなりに社会的に通用して、独自の力になっていくという、この基本的な事実から出発して、全体状況についての鳥瞰をいわばモンタージュ式に合成していくような、そういうテクニックと思考法というものを、我々が要求されているんじゃないかと思うのであります。

日本の思想における問題点は、思想上の共通基盤を持っていないということだった。だからといって今さら新たな基盤を作りだして、その上に文化を形成していくなんてのは悠長すぎて無理な話に思える。現実的には著者が言うように、イメージを合成していく仕組みを社会全体で共有していくしかないのだろう。そういった思考が社会に伝播していったときに、それが日本の思想上の基盤になるのかもしれない。

おわりに

読み進めるうちに判明したのは、日本には思想らしい思想なんて無いというショッキングなものだった。しかしそれを嘆いたって仕方がないので、そういった社会であることを受け止めた上で、そこに潜む問題点と解決方法を研究していくしかないのだろう。

この本はテーマ自体が深遠すぎるので、少なくとも自分は完全に理解するどころか、誤読している箇所が多そうで不安です。ただそういった奥深さを持っているだけに面白い本なのでおすすめとも言えます。出版は1961年ですが古さを感じさせません。


SNSでもご購読できます。