本を「古典として読む」とは/『読書と社会科学』

電子顕微鏡を通して肉眼では見えない世界を見るように、社会科学では、概念という装置をつかって現象の奥にある本質を見きわめようとする。自前の概念装置をいかにして作るか。それを身につけることで何が見えてくるか。古典を読むことと社会科学を学ぶこととを重ね合わせて、本はどう読むべきかの実習を読者とともに試みる実践的読書論。

化学や工学の分野ではさまざまな器具を用いるが、社会科学ではそのように特定の器具を用いるということはない。その代わりに社会科学に携わる人々は、それぞれの内面にある独自の考え方――本書ではそれを「概念装置」と読んでいる――を通してモノゴトを見ようとする。

本書はその概念装置を作るための読書の仕方がまとめてある。読書術についての本と言っていいけれども、後半は著者の社会科学論が中心となっている。そもそもこの本は著者が雑誌で連載していた記事や、大学での講演をまとめたものという形式となっているので、各章で内容は独立している。新書の古典はこういう形式の本が多いから特に違和感も無いけどね。

本を「古典として」読む

著者によれば、読書には本を「情報として読む」ことと、「古典として読む」ことがあるのだという。そして本書で中心となっていくのは後者だ。

「情報として読む」とは、その言葉のとおり、情報を得るために本を読むということだ。例えば旅行案内だとか折込チラシだとか新聞だとかを読む時というのはそういう読み方となりやすい。情報の表面をなぞるだけの読み方で、そこには脳内にその情報が蓄積されるというだけの意味しか持たない。

それに対して「古典として読む」というのは、自分のモノゴトの見方・考え方を養うために本を読むことをいう。情報を得るという点までは前者と同じだけれど、その後のアプローチが異なる。得た情報・思想を自分の奥深くまで浸透させて、自分を変えるために読む。悪い部分があれば正しい方向へ、古い部分があれば新しい方向へ。そうやって自身を研ぎ澄ますための読書が「古典として読む」ということだ。

古くからの情報を、眼のも少し奥のところで受けとることによって、自分の眼の構造を変え、いままで眼に映っていた情報の受けとり方、つまりは生き方が変る。そういうふうに読む読み方を、「古典として読む」という名に一括しました。

注意したいのはこれは「読み方」の話であって、本のジャンルや内容を規定しているわけでは無いということだ。例えば最初に上げた旅行案内や新聞だって、人によってはそれが「古典として読む」に値する存在となり得る。逆に歴史を変えるほどのパワーを持っていた古典でも、ある人にとっては響かないかもしれない。人によって何が「古典」となり得るかは違うのだ。

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そうなると著者のいう古典の定義とは何なのだろうか。それは「一度読むだけでは理解できない」ということだ。「読むたびに姿を変える」と言ったほうがポジティブに聞こえるかもしれない。深い内容を持った古典は、その時の読み手の心模様によって輝きを変える。そのたびに新たな発見があり、自分の考えを深めてくれる。そういった要素をもつ本が、古典と言えるのだろう。

ある本が――古典として既にみとめられているものをも含めて――古典であるゆえん、果して古典であるかどうかの確認は、そういう一読にかけた深い読みの繰り返しで初めてできる。そういう読みを要求し、それに応えうるのが古典である。

ではここからは、肝心の「古典として読む」ためには具体的にどうすればいいのか、ということを見ていきたい。

著者を「信じて疑う」

まず本を読む際には、そこに書かれている内容を「信じて疑う」ということが求められるという。矛盾するような気もするけれど、どういうことなのだろうか。

インターネットを利用する人は痛感することだと思うけれど、「疑う」ということは大切だ。そしてそれは読書でも学問でも等しく重要と言える。しかし闇雲になんでも疑えばいいというわけでもない。本当に正しい「懐疑」とは、その対象に対しての「信頼」が先に存在すればこそだからだ。

その「事実に対する」疑いが、現実に、ある具体的な事実に対するはっきりとした形の「疑い」として読み手に提起され、その「疑い」を解明するための労苦を要する行為に結実してくるためには、その(疑いの)底に信ずるという情念・信の念がはたらいていなければならないでしょう。

「疑い」の念だけをもってする読書は、読まないのと同じだ。なぜなら書かれている内容を受け入れる気が無いから。また「信頼」だけに振り切るのもいけない。それでは作者の言いなりでしかない。著者が「信じて疑え」と矛盾っぽいことを言ったのはこういう意味で、まず本に書かれていることを事実として受け入れ、その上で自分で咀嚼した時に疑いの念を持つことが大切だと言っているわけだ。

こうして考えると読書は、読み手と書き手の共同作業だと改めて思う。本を読む際にはまずその著者の言い分に全力で耳を傾け、それを受けて自分なりの考えを形成していく。顔も知らない人間と本を通してそのような高度なやり取りができることに、読書の面白さはあるのかもしれない。

読書感想を書く効果と正しい書き方

また本書では本を読んだ後に感想文を書くことを大いに進めている。まさに自分が今やっていることなので、興味深く読ませてもらった。ただし、ここで言われているのはなんでもいいから闇雲に書けということでは全く無い。

なぜ感想文を書くことが大切なのだろうか。それは本を読んだ後のさまざまな思いを、文章にすることでハッキリさせることができるからだ。良い本を読んだ後の余韻はたまらないけれど、それだけだと何が面白かったのか、どこに感動を覚えたのかが実はあまりわかっていない。それをまず自分の頭のなかから言葉として表出させ、他人に伝えられるような文章にしていくことで、初めてハッキリとした形で自分の本に対しての思いを見ることができる。

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以上が読書感想の効用と言えるけれど、ここに落とし穴もある。ひとつは「感想文を書くために読書をしてしまう」という罠だ。ここの順序が逆になってしまうと、重要そうな場所を読むだけの拾い読みとなってしまったり、簡単に読める内容の薄い本ばかりを選びがちになってしまったりと、本末転倒の行動を取ることになってしまう。「古典として読む」のであれば、大切なのは「まず読書ありき」で、そしてその後に内面から自然に浮かんだ感想を文章にするということだ。

しかし、そこにまた、本末転倒の落し穴があって、他人に通じやすい「他人向き」の「手ぎわのいい」感想文に向って本を読むくせがつく。

また文章化において大切なのは「他人にも正確に通じるような文章にする」ということだ。ここでは感想文を書くのは結局は自分のためであるから、他人からの視点など気にする必要は無いと思うかもしれない。しかし他人にも明確に理解できるようなわかりやすい文章にまとめることが、結局は自分の内面の正確な理解に繋がる。

自分で理解していると思っていたことでも、他人に説明してみると何がいいたいのかわからなくなることがある。「他人に説明できる」というのは、その内容を本当に理解しているかどうかの試金石となるのだろう。そういった理由で、個人的な文章でも他人からの視点は考慮するべきと言える。

他の人にも通じる正確な理解への努力を欠いては、恣意的ではあっても、真に個性的な理解にはなりませんからね。

著者によれば、本の内容が自分の奥底に関わる度合いが多いほど、それを明確な形でとらえ難いのだと言う。本当に良い本(映画でも劇でも絵画でもなんでもいいけど)に触れた後というのは、何とも言えない感動に包まれている。その「何とも言えない」部分を逃さずにしっかりとした形で受け取ることが大切であり、そうするためには感想を書くということは効果的というわけである。

おわりに

こうして拙いながらも本の感想を書いている自分にとって、「書く大切さ」について述べている部分は興味深く読めたし、考えを深める上で参考になった。また「信じて疑う」ということは読書を超えて、情報全般に対する向き合い方として大切だろう。信じすぎず、かと言って疑いすぎずにモノゴトにぶつかっていけば、他人の意見に耳を傾けながらも自分の考えを育むことができる。

読書や社会科学といったテーマを超えて、自分のモノゴトの考え方を再認識し、深めることができる一冊と言えます。

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