美しい日本語の文章を書くにはーー『文章読本(谷崎潤一郎著)』

名だたる作家や評論家たちが『文章読本』を著してきたが、その元祖にあたるのがこの谷崎潤一郎版の『文章読本』である。一般読者向けに書いたと本人が言っているように内容は平明となっている。文章を書くうえで現代でも参考になる点は非常に多い。

またこの本は『陰翳礼讃』と同様に、谷崎潤一郎が日本の伝統文化に回帰した時期に書かれている。それゆえに西洋文化に染まっていた自身への後悔や、古典回帰の必要性など、当時の谷崎潤一郎の思想を読み取ることのできる貴重な作品でもある。

『文章読本』は読者を啓発する目的も当然あったとは思うが、年月を経て変化した自身の思想の集大成として書く目的のほうが強かったのではないかと思う。

古典の文章から学ぶ必要性

本文のなかで繰り返し語られているのは古典文へ回帰することの必要性である。現代の口語文は表現法が非常に自由なことが大きなメリットとなっているが、自由すぎるあまり冗長にもなりやすく、かえって意味を掴みづらくなりがちだと著者は指摘している。そうなることを避けるために必要なのが「古典文の精神」だと言うわけである。

では「古典文の精神」とは何なのだろうか。それは「言葉や文字で表現出来ることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まること」だという。例えば平安時代の随筆や文学を現代のものと比べたとき、古典文は一文あたりが非常に短く、また同じ言葉の繰り返し(「あはれ」「をかし」など)が目立つ。それもそのはずで当時はそもそも言葉自体が少なかったので、文章で表現できることはかなり限られていた。しかしそれがマイナス要素になっているわけではない。むしろそういった環境だからこそリズム感のある文体が生まれ、読者に行間を読ませる味わい深い文章となっている。谷崎潤一郎はこういった要素が現代の文章には必要だと言っているわけである。

一体、現代の文章の書き方は、あまり読者に親切過ぎるようであります。実はもう少し不親切に書いて、あとは読者の理解力に一任した方が効果があるのでありますが、(以下略)

最終章ではそういった著者の美学が「含蓄」という言葉で結論づけられている。谷崎潤一郎は日本語の文章の美しさを「もののあはれ」に代表されるしみじみとした余情に見出したのだろう。その姿勢は『陰翳礼賛』でも同様であり、どちらの内容にも西洋文化に傾倒した自身への反省が見て取れる。

西洋流から離れろと言っているわけではない

古典文に還れ、というのは本書の中心となっている主張だが、だからといって西洋流を全否定しているわけではない。むしろ逆で、場合によっては「西洋流の言葉使いをもしなければならない」と言っている。

時に依り、題材に依っては、精密な表現を必要とし、西洋流の言葉使いをもしなければならないのでありまして、あらかじめ「こうであらねばならぬ」「あってはならぬ」と、一律に極めてしまうことは危険であります。

西洋風の文学と日本的な文学の両方を追求してきた谷崎潤一郎らしい意見である。彼は西洋文化に染まっている日本を憂う気持ちはあったが、それを全否定する段階ではないことも理解していたのだろう。日本か西洋かといった二者択一といった話ではなく、それらが融合したものをどう発展させていくかが重要なのである。

われわれは今日までに、秦西のあらゆる思想、技術、学問等を一と通り吸収し、消化しました。そうして種々なる不利な条件を課せられながら、或る部門においては先進国を追い越して、彼らを指導せんとしている。時代はもはや我等が文化の先頭に立って独創力を働かすべき機運に達しているのである。故に今後はいたずらに彼等の模倣をせず、彼等から学び得たことを、何とかして東洋の伝統的精神に融合させつつ、新しい道を切り開かねばなりますまい。

こういった谷崎潤一郎の姿勢は見方によっては西洋文化と日本文化の間で板挟みとなり、迷っているようにも見える。しかし迷いを抱きつつも模索する姿勢こそが大切なのだろう。またそういった迷いは谷崎潤一郎が実験的にさまざまな文体を採用するなどの実験的な行動へのきっかけにもなっていたはずだ。谷崎潤一郎の作品に深みを出すうえで、西洋への傾倒、日本の伝統文化への回帰、どちらも必要だったのだろう。

明治時代には「日本語の表記をローマ字にする」という運動もあったらしい。個人的にはそんな急激かつ無謀なことを言い出すのではなく、谷崎潤一郎のように両文化に折り合いをつけ次の段階を見据える冷静な視点を持つべきだったと思う。言うまでもなくその運動は失敗に終わったわけだが。


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