ブログにおける「文体」について思うことアレコレ

「文体」なんて言葉を使うと大それたイメージを持たれるかもしれませんが、ここで言うのは文末で「です・ます調」か「だ・である調」のどちらをブログ記事において使用するか、という程度の話です(※以下「ですます」「である」と表記)。

当ブログでは、始めは「ですます」を使っていたのですが、最近は意識的に「である」で記事を書くようにしていました。どうしてそんなことをしたかというと、まず自分自身にどっちがシックリくるかを確認したかったから。自分の書きやすい文体というものがイマイチ確立できていなくて、それを探し求めていたという感じです。

もうひとつは、どちらでも書けるようにしといて損は無いだろう、という程度の考え。「ですます」を使った文章と「である」を使った文章のそれぞれの味を知っておきたかったわけです。

以前にも文体について似たような記事を書いたのですが、そちらは一般論が主だった内容でした。今回の記事は実際にそれぞれの文体を使用し、比較してきた中での個人的な雑感および結論をまとめたいと思います。ちなみにこの記事は「ですます」で書きますです。

「である」は偉そうに思われないか心配になる

まず「である」を自分で使っている時の率直な感想は、「これだと偉がっているように思われるんじゃないか?」ということ。論文調なんて言われるこの文体はくだけた感じを出すことが難しく、書いていて図に乗っている印象を持たれないかが少し気になりました。

「である」は何かしらの実績を持っている人が使う分には威厳があり、説得力も増すので結構だと思うのですが、自分のようなペーペーが使うと自分で自分に違和感を感じるところがありました。一応フォローしておくと、これは別に「であるを使う人=偉そう」と言っているのではなくて、あくまで自分自身が使った時の感覚の話です。あと自分だけだろうけど、「~なのだ。」で文章が終わるとハム太郎みたいで少し恥ずかしい。

もちろん良い部分もあります。それは文末表現の繰り返しが少なくなること。文章は単調になるのを避けるため、文末が連続で同じ形になることを嫌います(「~です。~です」など)。文法的な話になるのですが、「です」「だ」「である」は体言に続けられるのに対して、「ます」だけはそれができません。例えば「この町は平和」に続く文末表現を考える場合、である調を採用している場合は「平和だ」「平和である」の2候補が浮かぶのに対して、ですます調の場合は「平和です」としか言えません。一応は「平和であり『ます』」というような言い回しもできますが、やはり不自然です。つまり「である」を使っている時には文末のバリエーションが少し豊富なため、そこに苦心することが減るわけです。微々たる差なので大きなメリットとは言えませんけどね。

個人的には「である」を使っている人の文章は格好良くて好きなのですが、自分で使ってみるとどこかシックリこない部分を感じることがあります。

ですます」は余所余所しい感じ

「である」に対して、文末が「ですます」で終わる文章の良いところは、その万人受けするところです。使っておけば当たり障りのない感じに文章が仕上がります。ただメリットとデメリットは表裏一体と言いますか、その丁寧さがややもすると読み手に余所余所しさを感じさせてしまう懸念もあるように感じました。そういった点があるので、「です調」でブログを書く人はなるべく独自色を出そうと工夫している方が多い印象です。

また先ほども言いましたが、文末に時どき苦心するのもこの文体の特徴です。体言止めなどを活用して、文章が単調にならないような工夫の必要があります。

このままだとボロクソに言った感じになるのでフォローを入れますが、やはり「万人受けする丁寧な文章が書ける」というのはそれだけで強いです。その癖の無さを良しとするか悪しとするかは個人の問題でしょうな。

そもそも文体なんて気にする必要はあるのか

自分は「文体」というものは非常に大切なものだと考えています。その文章全体の雰囲気や世界観を形作る要素の中で、文体というものが果たす役割は非常に大きい。宮沢賢治のオノマトペを駆使したあの文体は、同時に彼の作品全体の大きな特徴となっています。太宰治の小説は、あの少し捻くれたような文体が魅力なわけです。それは文学作品だけではなく、個人ブログでも同様で、その人にしか再現できない文体を確立することは大切でしょう。単なる文章の外見という以上の意味を持っているのが文体と言えます。

ただそういったかなり高尚なレベルの「文体」は別として、今回のように個人ブログで「文末にどういった言葉を選ぶか」という程度の「文体」の話であれば、そこまで深く気にすることでも無いようにも思います。ここまで散々にあーだこーだと書いてきて元も子も無いことを言うようですが。

そう思う理由としては、文章において大切なのは文体などの表面的な部分以上に、その文章からにじむ思想が大切ではないかと思うからです。その人が物事をどういう視点から見て、どのように思考を展開させていったかを見て取るのがブログ記事や本を読むおもしろさだと自分は考えています。そうなると、「ですます」か「である」かのどちらを選ぶか、なんてことはあまり深く考えても仕方がないように思えてくるわけです。

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あとは「文体によって与える印象が変わる」とはよく言うものの、結局そんなのは読んだ人に直接聞かないとわかったもんじゃない。僕は「『である』は偉そう」「『ですます』は余所余所しい」と使っていく中で感じたわけですが、そんなのは僕がそう思っただけで、記事を読んだ人はそんな風には思わなかったかもしれません。文体が与える印象なんてのは、そういう傾向があるというだけで、絶対的なものではないわけです。

だから極端なことを言えば、別にブログの文体なんてものはコロコロ変わってもいいんじゃないかとも思います。その奥底にあるその人の思想が日々研ぎ澄まされた一貫したものであれば、記事ごとに変えたり、その日の気分で変えたり、といったこともアリかもしれません。ただそれをやりすぎると読者が混乱する恐れがあるので、あくまで極端な例として受け取ってください。ただブログという場所であれば、そういったフリーダムさがあってもおもしろいとは思います。僕もよくやりますが、記事の内容で文体を変えるというのもひとつの方法かもしれません。

「文体」とどう付き合っていくか

結論らしい結論も出ていませんが、現状で自分の思う「ブログの文体をどのような観点で決めるべきか」についての考えを述べます。

まずは「どういった文体が普段の自分の雰囲気に近いか」という決め方。文章はやろうと思えば自分を大きく見せることもできますし、全く違う自分を表現するようなこともできます。ただ最初はそれでうまくいっても、段々と現実の自分との乖離に苦しめられることになります。そうならないために、日常の自分をそのまま表現できる――そんな文体にするのは大切です。

あとこれは決め方というよりは考え方ですが、「文体についてあまり難しく考え過ぎない」という姿勢も必要ではないかと思います。文体について考えすぎるあまり、文章を書くことに手がつかなくなったら本末転倒だからです。文体なんてものは書き続ける中で固まっていく側面もあるので、「とりあえず書く」ということを重視するべきだと思います。

最後に肝心の自分自身の話ですが、比較するほどに「どちらでもいい」という考えになってきたのが正直なところです 。自分は「ですます」と「である」のどちらが特に書きやすいということもなければ、どちらが特に書きにくいということも無い。久しぶりに「ですます」で文章を書いてみたいような気がするけど、もう少し「である」で書いてみたいような気もする。優柔不断ですみません。今のところは記事によって変えたりしてみる、というのが折衷案として悪く無いと考えています。書評的なものの時は「である」、レビューなどは「ですます」とかね。

文体についてはまだまだ右往左往が続きそうですが、先ほども言ったようにその奥にある思想を読み取っていただければ幸いと存じます。

今回はブログの文末に的を絞った「文体」の話でしたが、そのうちに作品全体の雰囲気を決定づけるような「文体」についてもアレコレ考えたいですね。

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